昭和40年11月25日 朝の御理解



私の、ご飯茶碗を、割りますのは、もう、私の、(笑い)私のばっかりが割れるんですね。「んん」。もう、一番大事にしておる、これは、親先生のだから、これはお父さんのだからと、と言うて、勿論、今日は、まあ、皆さんが、普通では、観賞用にしなければ勿体ないような、お茶碗ばっかりであります。ところが、私の茶碗が、あの、一番割れる率が多いのです。おー、先生方の茶碗も、もう、随分長い間もう、使うておられますけれども、私のは、年のうち何回か茶碗が変わります。割れるからです。そういうわけで、みんなが大事にされるのに、どういうわけで割れるだろうかと。
昨日も、丁度、おー、割れておりましたから、えー、見事な茶碗を昨日また、頂きました。も、本当に、観賞用でなからにゃ勿体ないと、もうこれだから、もう、そんなら洗うまいち、洗わにゃまたいかんから、洗ってもらわにゃいけませんけれど、私、昨日もです、夕食を終わらせて頂いてから、妹の子の、靖子が、後片付けしよりました。ほらもう、お父さんとは大事にしよかんけりゃいけん。また、この、割りどんしなさんなち私が言うて、「はい、もう割らんごつ」ち言うて、ガチャっち、ま、われはしませんでしたけれども、今の音はどうも、キズになった音だねと言うて、ま、言うた事でした。昨日頂いて、しかも大事に、大事にさして頂きよるのが、この、一番割れる率が多いということ。どういうわけだろうかとこう思う。ですから、あまりにも割っちゃならん、割っちゃならんとこう、思うたり、緊張したりすることが、かえって割るということになるですね。これは、まあ、幾ら割れても、幾ら割れても、その、神様は、限り無しに下さるのですから、本当に、茶碗屋さんは、喜んで下さるでしょうけれども、ま、他のいろいろなことに、それを思うて見ますとですね、例えば、あの、良く私を自動車に乗せてくださる方が言われる。先生が横に乗られると、どうも緊張してから、返って危ないような気がすると、「ね」。先生を横に乗せとる時に、事故でもあっちゃならんとこう、やっぱ思われる。私を大事に思うて下さるからでしょうと私は思うですね。まあだ、おかげでその、危ないことはありませんでしたですね。一遍、関さんの車で、(はっは)善導寺から帰りよってから、敏子さんの運転でしたけれども、大きなトラックにぶっつけられたことがあります。こう、大きな車と、車との合い中に、車のここへ、ぽっと入ってしまって、ですからもう、大した事故、そのまま車は動くくらいの事故でしたけれども、ようも、こげなことで済んだと思うくらいでしたけれどもです。それとても、やっぱりこの、緊張のしすぎというようなものが、あったのではないかとこう思いますです。「ね」。緊張しとらんならんけれども、あんまり、緊張しすぎちゃならん。「大事にせにゃいかんよ」「本当ですね、大事にせにゃいけません」といいながら、ガチャっと、こう言わせよる。というて、ほんなら、色々な、この、事故がありますと、んー、などは、あんまり慣れっこになり過ぎて、あんまり慣れてしまって、そして、その事故の元というものが、その、慣れっこになり過ぎてから、例えば、危険な仕事なんかをする人達が、もう、いよいよ済んだと、後これ一つでしまえると、言ったようなときに事故があるということでがざいますね。もう、気を抜くからですよね。だから、気を抜いてもいかん、緊張し過ぎてもいかんということになるですねえ。そこに、神信心の上にも、それが言える。「ね」。神様の前。もう本当に、実意丁寧神信心と、だから仰るのですけれども。んー、教祖の神様も、御理解の中に、「お伺いでもするときには、とりわけ平気な心で」と、仰っておられます。これは、お伺いではない、神様御願いをする場合でもです。あーあどうぞと言うて、その、あまりにも緊張したんでは、神様に交流しないとか言ってるんです。「ね」。というて、神様をザーッと思ってから、「ね」。神様をいわば、甘く見てから。それで、その、自分の心の不浄も、おー、不浄とも思わんで、横着をしておるというようなことでは、直さらご無礼になる。ご無礼になっちゃ、おかげにならん。「ね」。皆さんでも、そんな時が有りますでしょうが、眠っちゃならんと、思いよら、ようけ眠気ち言うものは、どっかある。「ね」。ですから、どうでも、私共は、とりわけ平気な心でと、こういうこと。それは、神様の前に座る時だけではない、お伺いをする時だけではなくてです。もう、日常の中にとりわけ平気でという心の状態が、必要であるということです。ほんなら、とりわけ平気でということは、甘く見るとか、もう、やらやれ済んだとか言うて気を抜くといったようなものではなく、「ね」。緊張し過ぎるというのでもなく、いわゆるその、何にもない平生心とでも言うことだと私は思うです。「ね」。この平生心を頂かせて頂くために、お互い、実意丁寧神信心させて頂かねばならんということになります。「ね」。神様の前に、あまり、いわば、緊張し過ぎては、神様には交流しない。あんまり、緊張し過ぎると、かえって、割っちゃならん、割っちゃならんと思うのが、先に割れるというような、理がある。と言うて、やれやれ済んだ、と言うて気を抜いたときに、事故があると。自動車の運転でも、そうである。「ね」。緊張し過ぎておっては、かえって危ないし、と言うて、も、ザーッと思うて、甘く見ることによってまた、怪我の元になるという事になるのですから。その、中間の、中間というとまた、中間という訳でも無いのでしょうけれども、教祖の仰る、いわゆる平生心。とりわけ平気な心と、とりわけ平気な心と。この、とりわけ平気な心というのが、私は、素晴らしいと思う。とりわけ平気な心で信心させてもらわなければなりません。「ね」。とりわけ平気な心を、頂かせて頂くために、一つ、で、とりわけ平気な心でというのは、どういうことかというと、神様に何時も交流しておる心だと思う。神様のご守護を頂いておるんだと思う。「ね」。何時も、神様のご守護を頂いておるんだ。神様が見守っていて下さるんだと、そういう心だと思う。だから、その答えとしてから、何時も、有り難うございますと。勿体ないことですと。有り難うございますという、心だとこう思う。「ね」。そういう心なんです。皆さん、神様に向かわれて、あまりに緊張し過ぎられるような事は無いだろうか。または、あまりに、ざっとした事はないだろうか。これは、なかなかその辺は難しいですもんね。御祈念一つさせて頂いてもそうです。「ね」。神様の前に出て、なら、お伺いでもさせてもらう時には、「ね」。とりわけ平気な心でとこう仰る。そういう、とりわけ平気な心というものを、私共の、心の上にお許しを頂き、頂けれるために、私共がですね、何時も、心の、いわば、良心の呵責とでも申しますんですかねえ、または、私共の、我情我欲というものが、どうぞどうぞと言うて、特別に、御願いをせんならん。特別に、自分の我情我欲から出た願いといったようなものではなくてですね、何時も神様に喜んで頂けるというか、安心して頂けれるというか、「ね」。その、神様の心に叶う、生き方、在り方というものが、身に付いて行かなければ、そういう心は、許されないとこう思う。「ね」。自分が、お粗末、ご無礼のことばっかりしよってから、ほんとに、神様お気づき頂くかも知れん、お気づき頂くかも知れんと言ったような事では、やっぱり、お気付けになって現れてくる。「ね」。かと言うて、あんまり、言うなら、安心ではない安心です。いわゆる、安心しきっては、また、おかげを落とす。「ね」。ですから、どうでも一つ、私は、何時も、自分の心の中に頂くところの平生心。平生心とは、神様に何時も、通うておるという有り難さ。「ね」。神様のご守護を、何時も受けておるなあという喜び。それを、日常茶飯事の中に、なるほど、神様のご都合、神様のおかげを頂いておる印だなと、神様のお守りを頂いておる印だなといったような、私は、体験を、ずっとこう、頂き抜いて行かなければいけないと思う。「ね」。どうぞ一つ、おかげ頂きましてから。緊張し過ぎてはいかん。というて、緊張を欠いてはいかん。その、まあ、言うなら、中間的な心というのは、平生心であり、「ね」。とりわけ平気な心でとこう言うのである。とりわけ平気な心というのは、神様に何時も通うておる、交流しておるという、私は、心だとこう思うのですね。そういう心を頂かせていただくことが、私は信心。そういう、心の状態を願わせて頂く事が、和賀心。「ね」。和らぎ賀こぶ心とは、そういう心ではないことこう思う。「ね」。どうぞ、あまりに、ま一丁ならん、ま一丁ならんとこう思うと、返ってガチャっといわせるような事になる。「ね」。というて、緊張欠いて、横着になったんではいかん。いよいよ、実意丁寧だけではなくてです、実意丁寧いわゆる神信心ということが、
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婦人部会に対する御理解



只今、あのう、御祈念なかばに、このことは、今日の婦人部会の方達のために、下さっているらしいんですね。ですから、こっち、御祈念なかばで今、辞めて、ま、聞いていただこうと思っています。それで、後の方には、皆さんから、お伝えください。今、あのう、久富さんが、総代さんの、ここで今、お届けがあっておりましたでしょう。それがあのう、椛目のことを、久富さんのことだとこう思っていたんです。ところが、今晩の婦人部会のことのために、今朝から、頂いておられるわけですね。それは、あのう、どういうようなお知らせを頂いておられるかというとですね。あの、久富先生と、久富重雄さんと、二人、この、一生懸命道作りがあっておる。その道にこう、何かこう、ま、バラスのようなものでしょうたいね、道を作った後にその、敷いておられる所へその、(ぼい土井の村に?)召集令状が来たというお知らせだったそうです。それでその、誰に来とるかというたら、家内の久子にきとりますち言う。「ね」。いわゆる奥さんに来とるわけです。それから、村内の方に、やはり他に、三、四人の方にも来とる、うー、その、信心のないそのよその嫁さんたちがですね、もう、こら、召集令状が来たが、どうするじゃろうかと言うて、泣きよりなさるとこじゃったと。それで、貴方も折角、召集令状の来たけんで、そげんもう、あんた、泣いたっちゃしよんなかじゃないの、行かにゃできんじゃないのち言うてからその、言うておるところであった。もう、それから先、もう、細々しいことがあったですね、あの、土井に、大坪正人さんち言う方がおられます。その方の事やった。そのことは、だから私のことだろうと思うですね。ま、大坪ちいやあ、私のこと。正人ちいやあ、正しい人ち書いてあるけん、ま、正しい人でもないけれども、ま、そういう風に、分かりやすくして下さったのかも分かりませんけれどね。それが、あの、そのことを大坪正人さんが願っておられるということですね。ということは、ほんなら、そのまま神様が願っておられるという事にも頂かにゃならんだろうと思うんですね。それで、例えていうならば、主人な、道作りに一生懸命、「ね」。例えば、ほんなら、婦人部の方たちはです、それこそ、赤紙が、男の方達に、あの、戦時中にね、召集令状が来たときのような気持ちでです、今こそ、立ち上がらなければならないという事ですよ。「ね」。同時に私は、思うのは、例えば、なるほど、昔の召集令状といやあ、戦争か何かのときですからね。いうなら、その当時を非常時と申します。今の椛目が、非常時でなくて何であるか、「ね」。もう、この時をおいて、椛目の非常時はまず、なかろうとさえ私は思うくらいです。「ね」。その、非常時に当たって、主人は、道つくりに出ておる、「ね」。家内は、赤紙が来ておると、こういうことです。「ね」。そこでほんなら、これが例えば、戦争であるならばですね、本当にやっぱ、命がけでいかにゃなりません。また、家の、どうや、こうやという理屈は言われません。「ね」。けれどもその、信心の召集令状というか、赤紙というのはです、私は、まあ、その、命がけは、命がけでも、命がけようが違う。「ね」。全身全霊を私は、神様え。例えて言うならばです、事、神様のことというたらです、さあ、貴方は、道作りがありましょうがと、私は、もう、おらんものと思うて下さいと言うくらいの気持ちでです、「ね」。たとえばその、御用にでも携わらせて頂く。これば、一丁片付けてから行かにゃならん。あれも、一丁して行かにゃならん。もう、今夜は本当はご無礼せにゃならん。そういうことでは出来んということだと、私は思うですね。そこに、私は、けれども、神様も喜んで、そういう一心にです、神様も喜んで下さるなら、お互いが、お徳を受けれるというのでしょうかねえ。やはり、金糸勲章(笑い)。私は、御徳が頂けるのじゃないかと、そういう風に思うです。「ね」。もう、本当に、今は、神様の御願いが成就することのために、皆さんが、その、家族を上げて、一生懸命なる時だと思う。今こそ、非常時だと。「ね」。ですから、ほんなら、取り上げやらもしなさんな、もう、ほうからかしときなさいというわけじゃ無かて、「ね」。取り上げもして行く、家庭のこともしてはいいけれども、事、神様の事いう時には、さ、今夜はもう、早仕舞いぞと、「ね」。こんや、お父さん、貴方はどうぞと、ま、例えばそれが、ま、取り上げなら取り上げがですたい、もう、二日、五日遅うなったちゃ、そげな事なんか問題じゃないということ。「ね」。私は、これを、今の、例えば、久富さんの御夢からですたい、この御夢を、今日の、婦人部会の者に伝えるということのために、えー、頂いておるのでございますから、皆さんは、ここんところを、しっかり頂かねばいけん。ところが、そんなら、どういう訳に、ま、信心の無い方達にも、召集令状が来とるかということ。ところが、信心の無い者の姿というものは、さあ、赤紙を受けたと。ということになったら、それこそ泣きの涙であるということ。「ね」。例えば、昔の、召集令状が参りますときに、見たときにですたい、「ね」。もう、それこそ、召集令状が来てから、行こごつなかどん、言いよるならもう、非国民と言われたです。「ね」。信心の上での召集令状ならばですね、非国民というわけじゃないでしょうけれども、信心の無いものと同じ事と。信心のない「ね」。信心のない者は仕方が無い。だから、神様から、非国民と言われて良いなら、仕方が無い。私は、信心いただいとっても、その、非国民と言うですかね、非信者とでも言いましょうかね。信心はしとるけれども、非信者と同じ事といったような程度の人が、どのくらいあるか分からんと私は思うです。今こそ、もう、男も女も、老いも若きも、今こそ、椛目の神様の願いの御成就のことのために、集中しなければならない。そこに、思いをかけなければならない。総掛かりの信心がなされなければならないと。「ね」。なぜ、例えば、ほんならば、久富久子さんは、召集令状を受けたけれども、その、びくともしなかったかと。もう、そげん、貴方のごと、泣いたっちゃしよんなかじゃないの、来とるけん行きなさいち言うて、返って、他の人をその、進めておったとこういうわけ。それはね、神様のことに打ち込むということが、どういう有り難い事か、しかもその、神様のことが御成就になりゃ、私共の、御成就であるということを、知っておられるから、赤紙が来てもびくともしないのじゃなかろうかと、こう思うのです。「ね」。だから、そういう思いを、いよいよ、垢抜けしたものにしていかねばならない。も、こん忙しかつに貴方、今から、また、椛目行きですかち言ったものが、これから先、毛頭あっちゃならないて。それこそ、お国に奉げ出し、いわば、主人であるというような思いのですね、信心がなされていかなければならない。椛目の婦人部会と言うて、ま、集まって見えるという方は、殆んどが、椛目の中心になる方達ばっかり。だから、連れ合いがおるところは、それこそ、打って一丸になってからの、事が出来ておりますけれどもです、ほんなら、召集令状を受け取った時のような気持ちでは、まだまだ無いということだと私は思うですね。主人が道造るなら、家内は、言うなら、赤紙でも受けた時のような気持ちでです、「ね」。事、神様のことに、例えば、信心が無い者ならばです、泣きの涙であろう、「ね」。それこそ、神様が私のようなものでも、御用に使うて下さるという、その喜びです。その、喜びで御用が出来る。そこに、神の願いが成就する。神の願いが成就するときに、また、私共の願いがです、それこそ、夢にも思わなかったような道がです、段々、つけられていきよる。というようなふうに、今の、久富さんのお届けから感じたんです。御祈念させて頂よりましたら、そのことを、今晩の婦人部会のためにとこう頂きましたから、御祈念なかばにして、皆さん、二階から降りてもらったわけなんですけれども、どうぞ後から見える方には、今の、お夢をもう一遍、検討されてですね、本気で、そうですなと、本気で一つ、私共が、赤紙で受けたような気持ちで、一つ、この非常時を乗り切らせていただかにゃならんというようなですね、話し合いになってまいりますようにどうぞ、よろしく御願い致します。